文紀兄の逝去

 私は、戦後間もなく父吉田幸一郎と母吉田安代のもと福岡県の片田舎で生を受け、大学生になってから家を離れ独り立ちをしました。丁度その頃に父親を亡くし、末っ子の私は残された母親と3人の兄たちに父親代わりになってもらい、特に実家を継いだ長男とその家族には大変お世話になりました。そのお陰で、今日の私はあります。

 長男の文紀兄は、昭和九年戦中生まれの当年85歳、父親と同じ教育者として勤め上げ、晩年は親父譲りの釣りや好きなゴルフを楽しみながら息子家族と仲良く暮らしていましたました。そして、この9月5日の午前11時25分、老衰により浄土へ旅立ちました。

 話は変わり、9月3日、実家の知史さんから入院中だった兄の容体について、病院の先生から、数値が下がって不安定状態なので、ご家族の方は病院へ…”との連絡がありました、との連絡。その2日後、幸いに“数値が戻り安定しました”と追っての連絡がありましたが、翌日“先生から心拍が…”との話があったとの連絡、私は覚悟はできていたものの慌てて自分の車で病院へ向かいました。早る気持ちを落ち着かせながら高速道路(長崎自動車道)の多久IC辺りに差し掛かった時、私のスマホのショートメールの着信音が鳴り、次の金立SAに寄って胸騒ぎを抑えながらメールを開きました。“11:25、老衰により逝去”という知史さんからのメールを確認、そして“今から斎場の方へ移動します”とのことでした。病院へ向かっていた私は、八女市本村の「セレモニーホール香林」という斎場へ駆けつけることにしました。

 12時半頃斎場に着くと、まだお通屋の準備中の吉田家の仮通夜の部屋に通され、そこで到着して間もない様子の忙しそうな儀姉の紀美子さんと知史さん家族に迎えられました。皆さんは、慣れない葬儀の準備に追われ兄のご遺体はまだ斎場には到着していませんでした。そのような中しばらくしたら病院から白い布に包まれたご遺体が運ばれて来て仮通夜の祭壇前の布団の上に寝かされました。顔に白い一枚の布が被せられた寝姿は、身体が小さく、痩せ細ってしまっていました。私は、すぐに兄と対面、その顔はついこの前お見舞いで会った時の寝顔と同じで、小さくなった顔の頬はこけていました。そして、穏やかで安らかな眠りについているようでした。“智ですよ! やっと、楽になりましたね。長い間辛かったでしょう。もう安心してお眠りください。いろいろとありがとうございました。”と話しかけ、手を合わせました。

 

 その夜は、身内だけによる仮通夜となり、私も実家の家族と一緒に泊まりました。翌6日は、午前10時から納棺、夕方の6時から本通夜となり、東京の二人の兄たちも駆け付け兄弟四人一同が久しぶりに揃いました。元気な内に揃えなかったことは残念でしたが、兄弟皆が揃うということは感慨深く、普段考えることのない先祖のことや血の繋がりの重みを感慨深く感じました。以前は、確か、母親の三十三回忌に大牟田三池の菩提寺「西岸寺」で揃ったのが、元気で揃えた最後だったように覚えています。

 さて、7日(土曜日)午後1時からの告別式は、私の家内と息子の一土も電車で駆けつけ、親族のほか学校関係者の方やご友人の方々が多数会葬され厳かに滞りなく執り行われました。弔辞では、ご友人の木下茂様が故人の功績やゴルフ仲間時代のエピソードを、続いて3人の孫たちによる祖父ちゃんの思い出話が披露され、家族に囲まれた兄だったことが偲ばれました。また、会場ではピアノの生演奏によるBGMが流れ、奇遇にもそのピアノ演奏者は私の同級生の安達さんでした。告別式が終了すると、親族で茶畑の中にある火葬場に行き骨壷に遺骨を納めました。そして、引き続き親族による故人を偲び夕食会が「磐井」で開かれ、和やかに歓談をしました。

 閉会後、私は先ず平岡兄をホテルへ送り、その後博至兄と一緒に私たち家族は同じホテルへ。私は三泊目の夜となって少し疲れを感じていましたが、息子と家内が来てくれたので帰路途中にある佐賀市内の「トイザラス」に寄り、我慢できた息子にゲームソフトを買ってあげました。つい先日の大雨被害による高速道路不通のため、途中から水害の爪痕の残った武雄市内の一般道へ降り、嬉野ICから高速に戻って無事帰宅できました。

 

 9月11日、初七日の法要が実家の仏間で速やかに執り行われ終了しました。大牟田の吉田家の菩提寺「西岸寺」への納骨は、49日の法要(10/20)を済ませてからの予定になっています。