今の私に導いてくれた、想い出のターニングポイント

開園当時の長崎でてこいランド
開園当時の長崎でてこいランド

 人生いろいろあるさあ〜。という話ですが、私もあと半月足らずで高齢者(65歳)に仲間入り。過去の想い出話をするようになったら歳をとった証拠だそうですが、<My Memorial Job #3>としましたが、私の人生の岐路になったライフワークについてご紹介させていただきます。

 

 私は、31才の時東京下町生まれの9才年下の女性と東京で結婚をし、それを機に小さなデザイン事務所株式会社オフィスヨシダを設立しました。クライアントにも恵まれ順風満帆の滑り出しかのように思われ、その3年後家内は実家のすぐ近くの産院で3,100gほどの男の子を出産しました。ところが、赤ちゃんは泣きが弱く元気のない子で、産院の先生から、取り出した時大きな声で泣かなかったこと、チアノーゼ状態だったこと、まだ片肺が十分に開いていないこと、足の指が少し重なる小奇形があることと、しばらく様子をみましょうとのことでした。しかし、なんとなく心配になり再度先生を訪ねて相談をしたところ、設備の整った病院で早く精密検査を受けて方が良いということになり、急遽広尾の日赤病院へ深夜の首都高速を救急搬送しました。それからは,日赤と家内だけが残された産院の2ヶ所を回る生活が続き、日赤のガラス越しの保育器の中にいる赤ちゃんの様子とその日飲んだミルクの量を家内に伝えるという毎日でした。そんな日々も1ヶ月と少しで、我が子にはすでに「創輔」と名付け、3人となって初めて横浜の自宅(横浜の兄の留守宅)帰りました。私たち親は、創輔の情態について、先生から先天性による脳形成不全と合併症を抱えていることを告げられ、一生寝たきりの生活になるかも知れないということをすでに知らされていました。創輔の穏やかな寝顔を見ると、全くどこも変わりない赤ちゃんなのに、と不思議に思うほどでした。

 そんな孫一家を気遣った妻の両親は、私たち若い親だけでは大変だと思ってくれ、すぐ相談なしに実家近くの新築マンション(東京足立区)を探し私たち親子を呼び寄せてくれ、両親をはじめ近くの義姉家族や親戚の方々の手助けを受けながら ”障がい児の家族” という新しい生活をスタートいたしました。創輔まだ1才に満たない0才の時でした。

 新しく移り住んだ足立区では、その頃から障がい児の早期療育や早期訓練が実施されており、私たち親子は、その時初めて知る理学療法や作業療法、言語療法、OT、PTなど、障がい児の早期療育や運動機能訓練の重要性を知ることになり、障害児教育に関するいろいろな機関や研究所などを訪れ、これまで全く知らなかった人間の成長の原点と発達について学ぶなど、どん欲に動き回りました。そのような時、たまたま創輔を指導してもらっていた理学療法士のM女史と親しくなり、さらにいろいろな人との繋がりが広がっていくことになりました。

 

 幸いにも、家内の性格は明るく社交的だったのも手伝い、同じ地域の同じような境遇のお母さん達とすぐ意気投合し、いろんな所に情報収集や意見交換、勉強会に行ったり、また遊びに出掛けたりバザーなどのイベントを企画するなど、いつしかサークルを作ってみんなで楽しく過ごすようになっていました。そんな或る夏、理学療法士のM女史の提案で、群馬県前橋の赤城山麓で村づくりをされていた「あかつきの村」という所にサマーキャンプに行くことになり、後に「でてこいランド構想」を一緒に立てることになる、目黒の障がい児を持つ家族「浜副さん一家」と障がい児者の生活用具を製作する工房の先駆け「でく工房/練馬」の三人(光野氏、竹野氏、荒井氏)との初めての出会いが、そこでありました。この出会いは、その後の私の生活を大きく変えるターニングポイントとなりました。

 それからというものは、すぐに夢話へと発展していき、浜副氏の自宅に集まった私たち障がい児の親とでく工房の面々の有志は、 その頃話題になっていた東京ディズニーランド進出に対し、 “ 障がい児の家族も気軽に出掛けられ、だれにも気兼ねなく過ごせる別荘のような場所があったらいいね〜”という話から、ディズニーが ” 出ズニィー” に聞こえることから、そうではなく”出てこい” だろうと息まいて「でてこいランド」という名称にしたことを懐かしく思います。 そして、足立区でのサークル活動も、「でてこいサークル」、「でてこいルーム」、「でてこいバザー」などの名前にし、資金集めのイベントなども恒例化してみんなで楽しみながら活動を続けました。また、家内と他の何人かのおかあさんは、障がい児を預かることのできる ”でてこい活動”(障がい児の学童保育) にしたいという夢に向かい、独学で資格を取得するというお母さんパワーには圧倒されました。羽は強し、男親の無力さを実感しました。

 その頃の私は、自分の子どもに何ができるのか、何を残せるのか、こういう子どもたちは自活できないのは明白だからお金を…、親の証を、親の愛情表現をどのように…と自問自答していました。お金を残しても、そのお金のことを理解できない、ましてや使い方すら分からないこどもに、と疑問は解けず、結局、都心の事務所をたたみ、食べるのに必要な契約していた会社のみにし、自宅で創輔中心の生活に変えでてこいサークル活動の裏方(廃品回収、荷物運搬、運転手など)に精を出していました。

 

 時は昭和から平成に変って間もない頃、長崎県小長井町にある重心施設「みさかえの園」に機器開発室を開設し専門職員として再就職をしていた光野氏(でく工房の創始者の一人)から、群馬の赤城山麓計画がなかなか実現に結びつかないままになっていたので、長崎の方ででてこいランド構想を立ち上げるからという嬉しい知らせがありました。諫早市の当時の市長(故野田あきら氏)から、「バリアフリー研究所構想」と「でてこいランド」構想と私の移住意向について、前向きに検討したいという返事をいただき、その数年後の平成6年4月から、新設された「諫早市デザイン指導室」室長・企画調整部企画調整課惨事として正規職員で迎えて頂くことになり、バリアフリーのまちづくりや施設建設などを担当させてもらうことになりました。46歳の春でした。

 

 再びの新米地方公務員として働くようになったその時は、すでに「長崎でてこいらんど」もオープンし、新聞やマスコミなどでも取り上げられる話題の施設となっていました。私は、その運営委員の一人としても参画し、デザイン面のほかボランティアで運営のお手伝いなどを楽しくさせてもらいました。

 その時の長崎でてこいランドの運営委員のお一人でもある、この構想にたいへん賛同されて参画していただいた日比野氏(長崎総合科学大学教授)との新たな出会いもあり、現在の諫早市民の一人として私があるのも、みなさんのお陰だと思っております。

 

 昨年秋には、当時の野田市長さんが他界され、その少し前には,建設にご尽力された同委員の一人の荒木さんが、その前の年位には設計をされた倉内さんも亡くなられたという噂を聞きました。最近のうわさでは、閉園の話があるとも聞いています。20年以上の月日が流れ、当時の委員の方々との交流も途絶えた今、寂しさを覚えるばかりか懐かしい気持ちと、やはりこの構想に関わらせていただいたことに対し、特に浜副さんご家族に心から感謝を申し上げます。

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コメント: 4
  • #1

    Chuck (月曜日, 28 5月 2018 07:33)

    当方長崎でてこいランドにて宿泊したく思い
    公式電話番号に電話してみたり、ネットで情報を集めている時に
    こちらのブログを拝見させて頂きました。
    現場にも行ったのですが特に閉鎖の注意書きはありませんでした。
    そこで、ご質問なのですが
    まだあの施設は利用可能なのでしょうか?

  • #2

    Yoshida (金曜日, 01 6月 2018 20:42)

    20数年前に関わっていた者の一人です。
    申し訳ありませんが、現在は全く関わりがありませんので、現在の状況は知りません。
    多分、以前のような利用などはできないのではないかと思われます。
    お役に立てず、申し訳ありません。

  • #3

    よしあき (月曜日, 16 7月 2018 13:11)

    はじめまして
    長崎でてこいランド
    で浜添さんの事業に感動し
    再建に努力してます
    まだまだでてこいランド元気ですよ 自閉症 発達障害等
    支援しながら再建努力してます

  • #4

    よしあき (月曜日, 16 7月 2018 13:19)

    長崎でてこいランドは
    創設者の創設当時の
    おもいを守り続けてます
    障害者 障害者を守るボランティアの方々の支援等
    支援続けてます
    連絡先は
    長崎でてこいランド
    木口 義昭
    09052907807